人生成功の方程式

やらなければいけない事がある。だけど先延ばしにしてしまうのが人間というもの。目の先にある快楽を取ってしまう。怠惰の結果、辛くなって、苦しくなって、後悔して、絶対に変わろうと決意する。だけど悔しさは長持ちしない。辛さは長持ちしない。悔しい思いをするのはその一瞬に過ぎない。


家に帰り、ご飯を食べ、自分の趣味に没頭してしまえば辛かった事なんて頭の中から消えている。後悔が持続するのは長くて五日間。そういったマイナスのエネルギーでは人間は動けない。努力できない。


だが心から望んでいることならば人間は努力し続ける。人間は永久機関になり得る。それは極めて尊いもの。自分の好きな事は他人にとっては好きではないかもしれない。そのとある分野が好きな貴方だからこそ、それに注げる熱量というものがある。


好きな事を見つける事。その後は自動操縦だ。勝手に努力する。そのエネルギーはどこから?


それが本当に好きならエネルギーは無限に湧き出てくる。貴方の内側からエネルギーが無限に湧き出てきた時には、貴方はもう誰にも負けない。その分野で世界一になれる。「好き」は恐ろしい程のエネルギーを生み出す。「好き」なだけで強大な力を得ることが出来る。


だから好きでもない事を続ける必要はない。強迫観念に支配されて無駄な努力をする必要はない。ただただ直感を信じなさい。今やりたいことだけをやる。


自堕落になってしまうのではないかと人々は恐れる。しかし直感を信じることで自堕落にはならない。自堕落になるのは、自分の設定した目標を超えられなくて自己嫌悪に陥るからだ。未来を悲観して不安で胸が一杯になりストレスで頭がおかしくなるからだ。他人と比較して自分の存在が無価値だと決めつけ、人にも劣る行動を自分から進んでやる事で合理化しようとするからだ。人の本能は善であり、邪念がない限り人は勝手に努力する。人は勝手に幸福を感じる。


人々は世の中が無常であることを無意識の内に認識している。全てのことに確かな事はなく、今正しいと思われることが未来には誤った事柄として扱われているかもしれない。世の中は常に移ろい、霧のように姿形を変え続ける。今の仕事が順調だからといって、どうして将来も同じように順調であると確信できる。世は千変万化する。人間は当然、生きることに不安を抱く。


確かな何かを皆、欲する。だから人は信念なるものを決めて、世の中がどんなに変化しようとも自分だけは変わらない様に努めるのだ。揺るぎない信念は確実に変化しない故、世に不安を覚える人間は人生哲学を決めて安心して人生を謳歌する。私は不変の信念を指針にして人生を生きているのだと。


だが私に言わせて貰えばその生き方はまだまだ甘く弱い。自分の信念に支配される代わりに人生を安心して生きる?信念は人に勇気を与える。だがメリットだけではない。人は何故今まで信念に対するデメリットを考えて来なかったのか私は甚だ疑問である。信念のデメリット。それは思考が固くなるということだ。明らかに思考の柔軟性は落ちる。人生を変えるビックチャンスが目の先に突然転がり込んできた時、信念を貫く人間はそのビックチャンスを認識する事なく見過ごしてしまう。信念に関係する事象でない限り、その人の脳内センサーは反応しない。私はこれを成し遂げる、私はこれを成し遂げると考えてしまうと臨機応変に多様な種類の幸運や幸せをキャッチ出来ない。信念に思考の容量の大部分を捧げてしまうのは愚かな事だ。そんな無駄なモノに生贄を捧げる必要などどこにある。そんな無駄な生贄で得た安心などいらない。だから信念を貫く事で人生をプラスの方向に持って行くのではなく、邪念を無くす事に精進した方が万事が上手くいく。

 

邪念とは人に影響されてしまうという事だ。他人と自分を比較して苦しい思いをしてはいないだろうか。自分がちっぽけな人間だと思ってはいないだろうか。自分を否定してしまってはいないだろうか。自分の価値を過小評価してしまってはいないだろうか。何故自分にマイナスなイメージを持ってしまうのか。それは他人という存在と自分という存在を混同してしまっているからだ。自分は何があっても自分であり、自分が操作可能な存在であり、誰からも支配されない存在だと自覚しなければならない。我が魂の所有者はまぎれもない私であり、我が魂の良き指導者もまぎれもない私自身なのである。


自分を諦めず、自分の望む事を半信半疑でもいいから常に思い描いて置くこと。そして絶対出来ると、ただただ信じて疑わないこと。社会的な正しさに振り回され、人形としての人生を過ごさないこと。


他人と自分を明確に区別して、図々しく堂々と生きる。自己本位に生きる。自己本位は自己中心とは違う。自分の人生なのだから自分だけのために生きる。しかし決して他人を疎かにするのでは無く、他人に関心を持ち過ぎないということだ。嫌いな人とは話さない。言いたい事があるなら、ハッキリと言う。喜怒哀楽を感じたままに表現する。自分がやりたい事はどんな邪魔が入ろうと絶対通す。我慢しない。欲望のままに生きる。遠慮しない。我を通す。そうしている内に自分の人生が操作可能なものであると人は思い出す。我儘に生きることで、思い通りに自分の望む方向へ進むことが出来る。


我が人生は我が手の中に。

 

自己中心的思考の勧め〜貴方を救う〜

あなたが心からくつろげる場所はどこ?会社?学校?家?あなたが無心になって情熱を傾けられるモノは何?ゲーム?読書?友人との会話?

案外この質問に答えられる人は少ない。自分が何を心から好いているのかをハッキリと認識している人は少ない。自分の思考の体系を認識していない人間は破滅しやすい。特に固定観念を持ちやすい人間が、自分の心の拠り所を知らないのはタチが悪い。精神を病んでしまう可能性が高い。今回は私オリジナルのメンタルケアについて紹介しよう。

自分の心の拠り所を知る事。貴方が心から休める場所はどこ?くだらないしがらみに囚われてはいないか。その場所で頑張らなければいけないと勘違いしていないか。努力する価値の無い空間で他人の目を気にして一生懸命になってはいないか。

もし今の生活に苦痛を感じてしまうなら、どこまでも自分に正直になる事だ。例え相手を傷つける事になっても。自分が運転する列車には何人たりとも近寄らせない。線路に入ってきたら引くしかない。

優しさは美しい。だが実用的ではない。貴方が優しいからと言って他の人間が優しいとは限らない。相手が臨戦態勢である時にこちら側がボーッと突っ立っていたら間違いなく負けるだろう。フェアじゃない。自分の欲望を通せ。我を通せ。レストランで出てきた御飯が不味くて金を払う価値を感じないのなら払う必要などないのだ。席を変えて欲しいなら要求すればいい。兎に角自分の要求を通す。相手の感情など二の次だ。

人は幸福になるために生まれてくる。不幸になるために生まれてくる奴などいない。人生の目的を知っている人間は、自分の幸せのためなら何でもする。そういった人のためにこちら側が遠慮する必要など何処にある。幸福を貪る人間のためにこちらの幸福を分けて遣る必要などないのだ。

ここまで言うと他人に無干渉な冷たい人間を創造するだろうが、自分のために生きる人間の方が他人に優しい。逆説的に自分の為に生きる人間の方が他人に愛情を注げる。不思議だろう。これには理由があるのだ。

自分の為に生きる人間は満たされている。余裕があるのだ。他人の犠牲になる愚かな人間は常に不幸だ。だから満たされない。結果として他人に優しく出来ない。余裕がないのだ。

自分の為に生きて、他人を幸せにしろ。他人に支配されず自分だけに奉仕しなさい。これらは決して矛盾しない。不思議な事に。